世間ではスーパーカートリオ、スーパーカートリオと言うが、私にとって加藤博一選手といえば古葉竹識監督時代の横浜大洋ホエールズが印象的だ。高木豊、加藤博一、屋鋪要の3選手をスーパーカートリオとして売り出した近藤貞雄監督の後に広島東洋カープを常勝チームにした古葉監督を就任させた横浜大洋だったが、周囲の期待に反してチームは低迷。
選手の間には「広島では、広島では、」といい続ける首脳陣に対するアレルギーがかなり強かったと聞く。次第にそれは戦いぶりにも反映される。
緩慢なプレー。
無気力なプレー。
そんな中でも加藤博一選手は違っていた。
明るいキャラクターばかり強調されていたが、代打の切り札として活躍したのだ。あのバッティングフォームを思い出すと涙が出てくる。
「代打 加藤!」の場内アナウンスの後にみんなで叫んだ「ひろかず」コール。
選手と首脳陣の確執が本当にあったとしてもチームの勝利を信じるファンには何の関係もありません。当時の横浜大洋にはその意識が欠落していたと思います。そんな弱いチームの中にあっても加藤博一選手は光っていたように思います。
歴史に残る成績は残していないと思うけど、野球ファンの記憶にはいつまでも残り続ける選手です。横浜スタジアムでみんなの期待を受けてバッターボックスに向かう加藤選手。思い出すだけで涙が止まりません。
ご冥福をお祈りします。
横浜大洋、阪神などで外野手として活躍した加藤博一(かとう・ひろかず)氏が21日午後0時54分、肺がんのため神奈川県横須賀市内の病院で死去した。56歳だった。俊足巧打を武器に大洋では高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成し話題を呼んだ。現役引退後は野球解説者として軽妙なトークなどでお茶の間の人気者となり、バラエティー番組などでも活躍。一昨年から闘病生活を続けてきたが、今月になり容体が急変。帰らぬ人となった。
加藤氏は家族に見守られながら息を引きとった。遺体が戻った逗子市内の自宅で取材に応じた二男の眞一さんは「一昨年から体を悪くして…」と語るのが精いっぱいだった。
加藤氏の所属事務所によると、06年冬に肺がんが見つかり、昨年2月に手術。それでも、その後は野球解説の仕事に復帰。7月に左太腿にがんが転移していたことが発見されたが、手術はせず、放射線治療や抗がん剤による治療で入退院を繰り返した。病床にはオリックス・清原からサイン入りバットとサイン色紙が激励のため届けられたという。生前、加藤氏が現場に駆けつけた時は抗がん剤の影響で髪の毛は抜けて帽子姿だったが周囲には「髪が抜けちゃったよ」と気丈に振る舞っていた。最後まで持ち前の明るさを失わずがんと闘ってきたが、ついに力尽きた。「現場に戻りたい。グラウンドに戻って野球を見たい」が口癖だった。
多久工(現多久)から70年にドラフト外で西鉄(現西武)に入団。76年に阪神に移籍してレギュラーに定着。79年に江川から初本塁打を放つなど"江川キラー"として活躍した。83年に移籍した横浜大洋では2番に定着。85年には48盗塁とリーグトップの39犠打をマーク。高木豊、屋鋪要と3人で148盗塁を記録し「スーパーカートリオ」として話題を呼んだ。髪形はパンチパーマ。ユニークで明るい性格から人気者となり、打席でのテーマ曲「蒲田行進曲」が元になったスタンドからの「ヒロカズコール」は横浜スタジアム名物となった。86年にはプロ17年目で初のオールスターにも出場した。
90年の現役引退後は、テレビのスポーツニュースで巧みな話術と持ち前の明るい性格を発揮。解説にバラエティーの要素を加えた野球キャスターの草分け的存在となり、一躍お茶の間の人気者になった。解説者の後輩には「グラウンドに誰よりも早く行って、選手の話を聞くんだ」と指導。自らが苦労して定位置をつかんだ経験から、現場では選手の話を親身になって聞くなど、現役選手からの信望も厚かった。金本(阪神)、松井稼(アストロズ)らも加藤氏を慕っていた。誰よりも野球を愛し、野球を熱く語ってきた。スーパーカーのごとく56年の人生を走り抜けた加藤氏の"ヒロカズ節"はもう聞けない。
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横浜大洋、阪神などで外野手として活躍した加藤博一(かとう・ひろかず)氏が21日午後0時54分、肺がんのため神奈川県横須賀市内の病院で死去した。56歳だった。俊足巧打を武器に大洋では高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成し話題を呼んだ。現役引退後は野球解説者として軽妙なトークなどでお茶の間の人気者となり、バラエティー番組などでも活躍。一昨年から闘病生活を続けてきたが、今月になり容体が急変。帰らぬ人となった。 


かつて同じ業界に身を置いていたものとしては『時代の変化』を感じざるを得ません。



「島根県に名物女将が経営する旅館がある…。」


創業以来90年間使い続けた「松下」の社名を捨てるのは、「断腸の思いもあった」と打ち明ける。「私が入社したのも『松下電器産業』。個々人にはノスタルジーもあるだろうが、会社としての発展や成長の可能性につながる決断になるよう努力したい」


何気なく見ていた「
久しぶりに面白い記事を見つけた。





